2007年11月23日 吉備路ハイキング1



秋晴れの一日をMLの仲間のみほさんと歩いてきました。当初は庭瀬駅からの予定でしたが予期せぬ
アクシデントのため吉備津神社から出発しました。そのため撫川城跡、日幡城跡と毛利方の武将吉川元春陣跡
の攻略は後日に持ち越されました。

吉備津神社9:00−加茂城跡9:30−鼓山10:00−蛙ヶ鼻11:00−太閤岩11:40−高松城跡12:15 12:45−
最上稲荷奥の院14:00−龍泉寺14:50−冠山城跡15:30−足守駅16:20

モノクロはネオパンプレスト カラーはデジタル





旧山陽道板倉宿 一キロ東に真金一里塚がある



加茂城跡 民家の裏 説明板がないとわからない
初めて行ったときは「城」という字を目安に行った


加茂城跡付近からの鼓山  杉尾の集落の山神様裏から取り付く
以前登ったときは案内板や道の状態も良かったが放置されて久しいようだ。再整備が望まれる


鼓山山頂(122メートル)の羽柴秀長の陣跡
古墳の石室が露出している




鼓山からの日差し山 小早川隆景が陣取った



西側の登山口は山陽道(高速)の鼓山トンネル西口から少し南にある
送電線の巡視路を利用している


蛙ヶ鼻(水攻築堤跡)発掘された工事の痕跡
堤の規模、延長は諸説ある


太閤岩への登り口  大鳥居の方(蛙ヶ鼻)
から歩いてくると塀の裏の案内標識が見えない


太閤岩(秀吉本陣)で勝ち鬨を上げるみほさん なおボルダーも可


毛利氏が織田氏の中国攻めに備えて築いた境目七城の要となる城
今は城址公園や資料館も整備されている

播州三木城、因州鳥取城の干殺しを目の当たりにした毛利氏にすればここで防がねば滅亡の危機が
現実のものとなるのは明らかだった。事実、秀吉の来襲に対し各城は力戦敢闘したが各個撃破され
高松城は孤立する結果になった。これは秀吉の来襲の時期を見誤って毛利勢の本隊の着陣が堤防の
完成の後となったのが取り返しのつかない失敗だった。小早川隆景は水に浮かぶ高松城を見ながら
手も足も出せず見守るしかなかったようだ。


本殿と奥の院を結ぶケーブルカーの線路跡


ケーブルカー山頂駅跡

最上稲荷には戦前、吉備線備中高松駅から稲荷線と、そして本殿と奥の院を結ぶケーブルカーがあった。
いづれも戦争が激しくなった昭和一九年に休止となりレールは戦地に転用された。
終戦後も復活する事はなかった。稲荷線跡は自転車道となっている。


紅葉がきれい おねえさんもきれい


正面の小高い山が冠山城跡




龍王池 後の山は奥の院がある龍王山


冠山城本丸跡に建てられた慰霊碑

冠山城は当初、秀吉の本陣があった龍王山の背後を脅かす存在であったため秀吉勢の第一の
攻撃目標になった。守勢は300騎総勢3600人余、寄せ方は宇喜多勢8000人余が先鋒をつとめ
攻撃をしたが城方の士気が高く撃退された。寄せ方は攻めあぐねたがついには加藤清正が槍を振るい
ねじ伏せた。城方は玉砕した。これは毛利勢が主家の滅亡の危機に奮い立った結果だと思う。
かえすがえすも毛利勢本隊の着陣が早ければ結果は違ったと思われて残念でならない。


みほさんの向かって左の山が境目七城の一番奥となる宮路山城跡
右の山が秀吉方の鍛冶屋城跡 宮路山城の麓が足守陣屋 川は足守川


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